【3大バレエって?】チャイコフスキーのバレエ音楽

バレエには物語とそれを表現する踊り、そして音楽も欠かせない要素です。しかしある時代まで、バレエ音楽はそれほど重要でないと考えられていました。それを現在のように高めたのがロシアの作曲家チャイコフスキーで、彼の3つのバレエ音楽は「3大バレエ」と呼ばれているのです。どうしてそう呼ばれるようになったのか、そのいきさつを見ていきましょう。

チャイコフスキーの生涯

Tchaikovsky

出典:Wikimedia Commons

ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)は音楽も好きでしたが法律を学び、いったんは法務省に勤めます。しかし、現在のモスクワ音楽院に通い始めると法務省も辞め、本格的に音楽の勉強に専念します。

ピアノ協奏曲第1番などは国際的に知られては行きますが、チャイコフスキーは経済的にはさほど成功したとは言えませんでした。そんな彼に、作品に感激した裕福なメック未亡人が経済的援助を申し出ます。この援助は、2人が直接会うことのないまま、彼が亡くなる数年前まで10年以上続きました。夫人のおかげでチャイコフスキーは思う存分作曲活動に専念できたのです。

【3大バレエって?】チャイコフスキーのバレエ音楽

眠れる森

《眠れる森の美女》の初演キャスト(1890年)
出典:Wikimedia Commons

チャイコフスキーより前の時代、バレエは踊り優先で、音楽はあまり重要視されていませんでした。また作曲家のほうも、バレエ音楽が重要なものだとは考えていませんでした。18世紀になるとロシアにバレエが伝わり、フランスやイタリアから教師や振付師が招かれます。特にフランスの振付家プティパが来たことで、ロシア・バレエは大きく発展していきました。

チャイコフスキーは昔からバレエが好きで、バレエ音楽《白鳥の湖》を作曲したものの初演の評判がふるわず、いったんはバレエ音楽から遠ざかっていました。しかし、サンクト・ペテルブルクのマリーンスキイ劇場の支配人フセヴォロシスキーから熱心な依頼を受け、彼は《眠れる森の美女》に取り組むことにします。

チャイコフスキーは振付師プティパと相談しながら作曲を進めていきました。そうして完成した《眠れる森の美女》は大成功します。つづく《くるみ割り人形》は、プティパがおおもとの台本と振付を指示したものにチャイコフスキーが音楽を付け、こちらも成功をおさめます。

最初に作曲した《白鳥の湖》が再注目されるようになったのは、チャイコフスキーの追悼コンサートがきっかけでした。このコンサートでは、プティパと副バレエマスターのイヴァーノフが《白鳥の湖》の一部分を演出したのです。

こうしてチャイコフスキーの3つのバレエ音楽は、「3大バレエ」と呼ばれるほどに広まり愛されていきます。つまり、優れた振付師プティパとバレエを愛する作曲家チャイコフスキーの出会いがあったからこそ、彼の3大バレエが名作として定着したのです。

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バレエには物語とそれを表現する踊り、そして音楽も欠かせない要素です。しかしある時代まで、バレエ音楽はそれほど重要でないと考えられていました。それを現在のように高めたのがロシアの作曲家チャイコフスキーで、彼の3つのバレエ音楽は「3大バレエ」と呼ばれているのです。どうしてそう呼ばれるようになったのか、そのいきさつを見ていきましょう。

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ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)は音楽も好きでしたが法律を学び、いったんは法務省に勤めます。しかし、現在のモスクワ音楽院に通い始めると法務省も辞め、本格的に音楽の勉強に専念します。

ピアノ協奏曲第1番などは国際的に知られては行きますが、チャイコフスキーは経済的にはさほど成功したとは言えませんでした。そんな彼に、作品に感激した裕福なメック未亡人が経済的援助を申し出ます。この援助は、2人が直接会うことのないまま、彼が亡くなる数年前まで10年以上続きました。夫人のおかげでチャイコフスキーは思う存分作曲活動に専念できたのです。

【3大バレエって?】チャイコフスキーのバレエ音楽

眠れる森

《眠れる森の美女》の初演キャスト(1890年)
出典:Wikimedia Commons

チャイコフスキーより前の時代、バレエは踊り優先で、音楽はあまり重要視されていませんでした。また作曲家のほうも、バレエ音楽が重要なものだとは考えていませんでした。18世紀になるとロシアにバレエが伝わり、フランスやイタリアから教師や振付師が招かれます。特にフランスの振付家プティパが来たことで、ロシア・バレエは大きく発展していきました。

チャイコフスキーは昔からバレエが好きで、バレエ音楽《白鳥の湖》を作曲したものの初演の評判がふるわず、いったんはバレエ音楽から遠ざかっていました。しかし、サンクト・ペテルブルクのマリーンスキイ劇場の支配人フセヴォロシスキーから熱心な依頼を受け、彼は《眠れる森の美女》に取り組むことにします。

チャイコフスキーは振付師プティパと相談しながら作曲を進めていきました。そうして完成した《眠れる森の美女》は大成功します。つづく《くるみ割り人形》は、プティパがおおもとの台本と振付を指示したものにチャイコフスキーが音楽を付け、こちらも成功をおさめます。

最初に作曲した《白鳥の湖》が再注目されるようになったのは、チャイコフスキーの追悼コンサートがきっかけでした。このコンサートでは、プティパと副バレエマスターのイヴァーノフが《白鳥の湖》の一部分を演出したのです。

こうしてチャイコフスキーの3つのバレエ音楽は、「3大バレエ」と呼ばれるほどに広まり愛されていきます。つまり、優れた振付師プティパとバレエを愛する作曲家チャイコフスキーの出会いがあったからこそ、彼の3大バレエが名作として定着したのです。

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2023年08月25日