ショスタコーヴィチは20世紀初め、ソヴィエト連邦時代のロシアに生まれた作曲家です。その作品は国内だけでなく、世界中で知られています。
そんなショスタコーヴィチが、あのショパンコンクールに出場経験があり、入賞して世界的なピアニストになっていた可能性があったのです。どういうことでしょうか?彼の人生をたどりながら見ていきましょう。
ショスタコーヴィチの生涯

ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)はピアニストの母からピアノの手ほどきを受けます。1919年にペトログラード音楽院(現在のサンクトベルク音楽院)に入学し、ピアノと作曲を学びます。
音楽院の卒業作品の交響曲第1番はヨーロッパ各国でも演奏され、また交響曲第2番はレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現在のサンクトベルク・フィルハーモニー交響楽団)のコンクールで第1位を獲得するなど、作曲家として彼の名は広く知られるようになります。
ショスタコーヴィチはピアノの腕前を活かしてピアノ曲も数多く作曲しており、特にピアノ協奏曲第1番は彼自身の演奏によって初演されました。また20世紀の作曲家らしく、ショスタコーヴィチ自身の演奏によるピアノ協奏曲やピアノ曲の録音も残されています。
オペラ《ムツェンスクのマクベス夫人》が大当たりしたことで、ショスタコーヴィチの名声はますます高まります。しかしときの指導者スターリンがこのオペラを観たことがきっかけで、国内のメディアから批判にさらされます。それからのショスタコーヴィチは、たえず体制に翻弄されることになります。
ショスタコーヴィチは、国の体制に沿った作品作りをし、国からいくつも勲章を受けます。しかし彼が本当に体制に忠実だったかどうか、いまでも研究者の間で議論が続いています。
ショスタコーヴィチのショパンコンクールへの挑戦

1910年ごろのワルシャワ・フィルハーモニー・ホール
出典:Wikimedia Commons
1927年、第1回ショパンコンクールが開催されます。「ショパン作品の素晴らしさを世界中の人に再認識してもらう」「若者が世界に羽ばたくチャンスの場を与えたい」というのがコンクール創設の趣旨でした。
このころショスタコーヴィチは音楽院を卒業したばかりで、ピアニストになろうか、作曲家になろうか迷っていました。コンクール出場が決まった彼は猛練習に励み、モスクワ音楽院大ホールで他の参加者とともに課題曲を披露したときには手ごたえも感じていました。
しかしタイミング悪く、ショスタコーヴィチは出発直前に虫垂炎にかかってしまいます。彼は無理を押して出場しますが、ソ連から出場した3人のうちオボーリンが優勝、ギンズブルグが第4位を獲得します。第2位と第3位にはポーランドからの出場者が入賞し、ショスタコーヴィチは入賞には至りませんでした。
ショスタコーヴィチが入賞を逃した原因としては、いろいろとあげられています。1.体調を崩したため、2.彼の演奏が入賞レベルに達していなかった、3.政治的な思惑、など…。
一説には、純粋な採点結果を見るとソ連代表が3位まで独占していて、それを避けるためショスタコーヴィチが落とされたと言われていますが、真偽のほどは定かではありません。
このころワルシャワの政治情勢は緊迫していたことも原因としてあるかもしれません。またもともと国威発揚のためにつくられたコンクールですし、この時の審査員は全員ポーランド人でしたから、政治的な思惑が働いた可能性もあります。
一方演奏についても、聴衆から「ショスタコーヴィチの演奏はよかった」と主催者側に声が多く寄せられたため、コンクール後の演奏会にショスタコーヴィチは特別に参加しています。ですから、演奏自体は決して悪いものではなかったようです。
もしショスタコーヴィチが出発前に病気にかからず、またオボーリンに匹敵する演奏で入賞していたら…。同時代の名ピアニスト、ホロヴィッツのように世界を駆けめぐるピアニストになっていたかもしれませんし、ラフマニノフのように自作品の演奏で各地を飛びまわっていたかもしれません。
監修者
稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)
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ソノール音楽教室についてショスタコーヴィチは20世紀初め、ソヴィエト連邦時代のロシアに生まれた作曲家です。その作品は国内だけでなく、世界中で知られています。
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ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)はピアニストの母からピアノの手ほどきを受けます。1919年にペトログラード音楽院(現在のサンクトベルク音楽院)に入学し、ピアノと作曲を学びます。
音楽院の卒業作品の交響曲第1番はヨーロッパ各国でも演奏され、また交響曲第2番はレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現在のサンクトベルク・フィルハーモニー交響楽団)のコンクールで第1位を獲得するなど、作曲家として彼の名は広く知られるようになります。
ショスタコーヴィチはピアノの腕前を活かしてピアノ曲も数多く作曲しており、特にピアノ協奏曲第1番は彼自身の演奏によって初演されました。また20世紀の作曲家らしく、ショスタコーヴィチ自身の演奏によるピアノ協奏曲やピアノ曲の録音も残されています。
オペラ《ムツェンスクのマクベス夫人》が大当たりしたことで、ショスタコーヴィチの名声はますます高まります。しかしときの指導者スターリンがこのオペラを観たことがきっかけで、国内のメディアから批判にさらされます。それからのショスタコーヴィチは、たえず体制に翻弄されることになります。
ショスタコーヴィチは、国の体制に沿った作品作りをし、国からいくつも勲章を受けます。しかし彼が本当に体制に忠実だったかどうか、いまでも研究者の間で議論が続いています。
ショスタコーヴィチのショパンコンクールへの挑戦

1910年ごろのワルシャワ・フィルハーモニー・ホール
出典:Wikimedia Commons
1927年、第1回ショパンコンクールが開催されます。「ショパン作品の素晴らしさを世界中の人に再認識してもらう」「若者が世界に羽ばたくチャンスの場を与えたい」というのがコンクール創設の趣旨でした。
このころショスタコーヴィチは音楽院を卒業したばかりで、ピアニストになろうか、作曲家になろうか迷っていました。コンクール出場が決まった彼は猛練習に励み、モスクワ音楽院大ホールで他の参加者とともに課題曲を披露したときには手ごたえも感じていました。
しかしタイミング悪く、ショスタコーヴィチは出発直前に虫垂炎にかかってしまいます。彼は無理を押して出場しますが、ソ連から出場した3人のうちオボーリンが優勝、ギンズブルグが第4位を獲得します。第2位と第3位にはポーランドからの出場者が入賞し、ショスタコーヴィチは入賞には至りませんでした。
ショスタコーヴィチが入賞を逃した原因としては、いろいろとあげられています。1.体調を崩したため、2.彼の演奏が入賞レベルに達していなかった、3.政治的な思惑、など…。
一説には、純粋な採点結果を見るとソ連代表が3位まで独占していて、それを避けるためショスタコーヴィチが落とされたと言われていますが、真偽のほどは定かではありません。
このころワルシャワの政治情勢は緊迫していたことも原因としてあるかもしれません。またもともと国威発揚のためにつくられたコンクールですし、この時の審査員は全員ポーランド人でしたから、政治的な思惑が働いた可能性もあります。
一方演奏についても、聴衆から「ショスタコーヴィチの演奏はよかった」と主催者側に声が多く寄せられたため、コンクール後の演奏会にショスタコーヴィチは特別に参加しています。ですから、演奏自体は決して悪いものではなかったようです。
もしショスタコーヴィチが出発前に病気にかからず、またオボーリンに匹敵する演奏で入賞していたら…。同時代の名ピアニスト、ホロヴィッツのように世界を駆けめぐるピアニストになっていたかもしれませんし、ラフマニノフのように自作品の演奏で各地を飛びまわっていたかもしれません。
監修者
稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)

洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業。
これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。
一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。
東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。
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