モーツァルトが最後に手掛けた曲はレクイエムですが、「レクイエム」とはカトリックでの死者のためのミサ曲をさします。そのため、レクイエムの作曲が彼の死を早めたという噂が流れました。ところが実際のモーツァルトは意欲的に取り組んでいたようです。なぜそんな噂がたったのでしょうか?作品のなりたちを見ていきましょう。
モーツァルトの生涯
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)はオーストリアのザルツブルグに生まれました。3歳でチェンバロを弾き、5歳で初めて作曲をするなど幼いころから才能を見せ、「神童」と呼ばれます。
モーツァルトは宮廷音楽家の父とヨーロッパ各地を演奏旅行でめぐり、生涯で計17回の旅をしたと言われています。
その後モーツァルトは故郷のザルツブルグで宮廷音楽家として活動しますが、大司教ともめたのが原因で宮廷を離れ、ウィーンでフリーの作曲家として活躍します。しかし、まだフリーの作曲家が活動しやすい環境とは言えない時代でした。経済的にはあまり恵まれなかったことと、浪費癖による貧困の中、わずか35年の短い生涯を終えます。
【レクイエムのせい?】モーツァルトの《レクイエム》の謎
《レクイエム》手稿譜の最後のページ
出典:Wikimedia Commons
この曲の成立を読みとくポイントは次の3つです。
・使いの男とその正体
・依頼主の思惑
・モーツァルトの宗教音楽への関心
モーツァルトが亡くなる年、1人の男が訪ねてきます。使いの者だという男は、身分を明かさずに「レクイエム」の作曲を依頼します。報酬の半分を前払いする、という条件のよい話だったのでモーツァルトは引き受けることにしました。
ところがモーツァルトはしだいに体調を崩していき、作品が完成する前に亡くなってしまいます。そのため、モーツァルトには使いの男が死神の使いに見え、追い込まれて死んだのではないか、という噂がたちました。
この使いの男はもちろん死神の使いではありません。ヴァルゼックという伯爵の使いの者で、伯爵は亡き妻の一周忌のためのレクイエムの作曲を依頼してきたのです。ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家でもありました。彼は名前を伏せて有名な作曲家に作曲を依頼し、楽譜に自分の名前を書いた上で自作のものとして演奏する、ということをたびたびしていたのです。
未完だった《レクイエム》は、妻のコンスタンツェがモーツァルトの弟子の手を借りて完成させ、無事に残りの報酬も受け取ります。一方ヴァルゼック伯爵は、これまでの作品と同様《レクイエム》も自分の作品として演奏しました。
実はその11ヶ月も前に、この作品はモーツァルト側の関係者によってウィーンで「初演」されていたのですが、伯爵はそれを知らなかったようです。その後モーツァルトの名前で楽譜が出版されたこともあって、《レクイエム》は無事に彼の作品として認識されました。
《レクイエム》の作曲依頼を受けた時期は、モーツァルトが宗教音楽に集中して取り組もうとしていた時期でした。モーツァルトは精神的に追い込まれるどころか、熱心に作曲に取り組んでいたようです。たまたま未完の作品がレクイエムだったため、ドラマチックな噂になってしまったというわけなのです。
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>【歓喜の歌は青春の思い出?】ベートーヴェンの交響曲第9番のなりたち
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ソノール音楽教室についてモーツァルトが最後に手掛けた曲はレクイエムですが、「レクイエム」とはカトリックでの死者のためのミサ曲をさします。そのため、レクイエムの作曲が彼の死を早めたという噂が流れました。ところが実際のモーツァルトは意欲的に取り組んでいたようです。なぜそんな噂がたったのでしょうか?作品のなりたちを見ていきましょう。
モーツァルトの生涯
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)はオーストリアのザルツブルグに生まれました。3歳でチェンバロを弾き、5歳で初めて作曲をするなど幼いころから才能を見せ、「神童」と呼ばれます。
モーツァルトは宮廷音楽家の父とヨーロッパ各地を演奏旅行でめぐり、生涯で計17回の旅をしたと言われています。
その後モーツァルトは故郷のザルツブルグで宮廷音楽家として活動しますが、大司教ともめたのが原因で宮廷を離れ、ウィーンでフリーの作曲家として活躍します。しかし、まだフリーの作曲家が活動しやすい環境とは言えない時代でした。経済的にはあまり恵まれなかったことと、浪費癖による貧困の中、わずか35年の短い生涯を終えます。
【レクイエムのせい?】モーツァルトの《レクイエム》の謎
《レクイエム》手稿譜の最後のページ
出典:Wikimedia Commons
この曲の成立を読みとくポイントは次の3つです。
・使いの男とその正体
・依頼主の思惑
・モーツァルトの宗教音楽への関心
モーツァルトが亡くなる年、1人の男が訪ねてきます。使いの者だという男は、身分を明かさずに「レクイエム」の作曲を依頼します。報酬の半分を前払いする、という条件のよい話だったのでモーツァルトは引き受けることにしました。
ところがモーツァルトはしだいに体調を崩していき、作品が完成する前に亡くなってしまいます。そのため、モーツァルトには使いの男が死神の使いに見え、追い込まれて死んだのではないか、という噂がたちました。
この使いの男はもちろん死神の使いではありません。ヴァルゼックという伯爵の使いの者で、伯爵は亡き妻の一周忌のためのレクイエムの作曲を依頼してきたのです。ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家でもありました。彼は名前を伏せて有名な作曲家に作曲を依頼し、楽譜に自分の名前を書いた上で自作のものとして演奏する、ということをたびたびしていたのです。
未完だった《レクイエム》は、妻のコンスタンツェがモーツァルトの弟子の手を借りて完成させ、無事に残りの報酬も受け取ります。一方ヴァルゼック伯爵は、これまでの作品と同様《レクイエム》も自分の作品として演奏しました。
実はその11ヶ月も前に、この作品はモーツァルト側の関係者によってウィーンで「初演」されていたのですが、伯爵はそれを知らなかったようです。その後モーツァルトの名前で楽譜が出版されたこともあって、《レクイエム》は無事に彼の作品として認識されました。
《レクイエム》の作曲依頼を受けた時期は、モーツァルトが宗教音楽に集中して取り組もうとしていた時期でした。モーツァルトは精神的に追い込まれるどころか、熱心に作曲に取り組んでいたようです。たまたま未完の作品がレクイエムだったため、ドラマチックな噂になってしまったというわけなのです。
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