ブラームスには有名な作品がたくさんあります。なかでも《ハンガリー舞曲》は演奏されることがとても多く、広く親しまれています。実はこの《ハンガリー舞曲》が発表された直後、大ヒットしたが故にちょっとしたトラブルがあったのです。
ブラームスの生涯

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)はドイツの作曲家です。劇場の楽団のコントラバス奏者だった父から音楽の手ほどきを受けると幼い時から才能を見せ、10歳で公開の室内楽演奏会でピアノを受け持ちます。さらに同時期に作曲も学び始めます。
10代の時に出会ったハンガリー生まれのヴァイオリン奏者レメーニは、ブラームスにいろいろな影響を与えた人物です。20歳の時にレメーニの演奏旅行に同行した先では、ヴァイオリニストで作曲家のヨアヒムや、ピアニストで作曲家のリストと出会います。
ヨアヒムとは交流が続き、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演はヨアヒムがヴァイオリン独奏を担当しています。この協奏曲のカデンツァという、ソロ・ヴァイオリンだけによる自由な即興演奏はいろいろな演奏家が作っていますが、現在もっとも演奏されることが多いのがヨアヒムのカデンツァです。
さらに同じころ、ブラームスはヨアヒムからの紹介状を持参してシューマン夫妻のもとを訪れ、とても歓迎されます。シューマンは記事で彼の演奏を絶賛し、彼の推薦でいくつかの作品が出版されるなど、ブラームスが世に出るきっかけとなりました。ブラームスはクララに対して恋愛感情があったとも言われていますが、シューマンが亡くなった後は妻クララと子供たちを献身的に支えていきます。
【ヒットしすぎた?】ブラームスのハンガリー舞曲

レメーニ(左)とブラームス
出典:Wikimedia Commons
ブラームスの人生における大きな出来事の1つが、ハンガリー人ヴァイオリニストのレメーニのドイツへの演奏旅行に同行したことでした。レメーニから(以前はジプシー音楽と呼ばれていた)ロマの音楽を知ったブラームスは、その音楽をハンガリーの民族音楽だと思い、楽譜に書き留めます。
例えば、《ハンガリー舞曲》で一番有名な第5番はケーレルという作曲家のチャールダーシュに着想を得ています。他にも作者不詳のチャールダーシュにもとづいている曲もあります。
彼は長い時間をかけてピアノ連弾用にまとめ、1867年に6曲を出版しようとしますが上手くいきませんでした。その2年後、10曲を《ハンガリー舞曲》として出版されたものが大ヒットします。この大ヒットを受けて、ブラームスはさらにピアノ独奏用編曲やいくつかの曲をオーケストラ用にも編曲し、1880年には第2集として11曲を追加で発表しています。
ところがあまりのヒットぶりに、この《ハンガリー舞曲》は盗作だとレメーニから訴訟を起こされてしまいます。しかし、「作曲ではなく編曲である」という判決が出て、ブラームスが勝訴しました。
ブラームスとしては、レメーニを通じて知ったロマの音楽を編曲したつもりで作品番号もつけませんでしたが、結果的にはそれが功を奏したというわけです(実は《ハンガリー舞曲》の何曲かの旋律は、ブラームス自身によるものだったのですが…)。
レメーニが裁判を起こすほど、《ハンガリー舞曲》が大旋風を巻き起こしたと言えますが、ブラームスの方も、レメーニに事前にことわりを入れておけば、このようなトラブルもなかったかもしれません。こうしてさまざまな反響を起こしたハンガリー舞曲は、その後も多くの音楽家によってオーケストラに編曲され、広く愛されていくのでした。
監修者
稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)
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ソノール音楽教室についてブラームスには有名な作品がたくさんあります。なかでも《ハンガリー舞曲》は演奏されることがとても多く、広く親しまれています。実はこの《ハンガリー舞曲》が発表された直後、大ヒットしたが故にちょっとしたトラブルがあったのです。
ブラームスの生涯

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)はドイツの作曲家です。劇場の楽団のコントラバス奏者だった父から音楽の手ほどきを受けると幼い時から才能を見せ、10歳で公開の室内楽演奏会でピアノを受け持ちます。さらに同時期に作曲も学び始めます。
10代の時に出会ったハンガリー生まれのヴァイオリン奏者レメーニは、ブラームスにいろいろな影響を与えた人物です。20歳の時にレメーニの演奏旅行に同行した先では、ヴァイオリニストで作曲家のヨアヒムや、ピアニストで作曲家のリストと出会います。
ヨアヒムとは交流が続き、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演はヨアヒムがヴァイオリン独奏を担当しています。この協奏曲のカデンツァという、ソロ・ヴァイオリンだけによる自由な即興演奏はいろいろな演奏家が作っていますが、現在もっとも演奏されることが多いのがヨアヒムのカデンツァです。
さらに同じころ、ブラームスはヨアヒムからの紹介状を持参してシューマン夫妻のもとを訪れ、とても歓迎されます。シューマンは記事で彼の演奏を絶賛し、彼の推薦でいくつかの作品が出版されるなど、ブラームスが世に出るきっかけとなりました。ブラームスはクララに対して恋愛感情があったとも言われていますが、シューマンが亡くなった後は妻クララと子供たちを献身的に支えていきます。
【ヒットしすぎた?】ブラームスのハンガリー舞曲

レメーニ(左)とブラームス
出典:Wikimedia Commons
ブラームスの人生における大きな出来事の1つが、ハンガリー人ヴァイオリニストのレメーニのドイツへの演奏旅行に同行したことでした。レメーニから(以前はジプシー音楽と呼ばれていた)ロマの音楽を知ったブラームスは、その音楽をハンガリーの民族音楽だと思い、楽譜に書き留めます。
例えば、《ハンガリー舞曲》で一番有名な第5番はケーレルという作曲家のチャールダーシュに着想を得ています。他にも作者不詳のチャールダーシュにもとづいている曲もあります。
彼は長い時間をかけてピアノ連弾用にまとめ、1867年に6曲を出版しようとしますが上手くいきませんでした。その2年後、10曲を《ハンガリー舞曲》として出版されたものが大ヒットします。この大ヒットを受けて、ブラームスはさらにピアノ独奏用編曲やいくつかの曲をオーケストラ用にも編曲し、1880年には第2集として11曲を追加で発表しています。
ところがあまりのヒットぶりに、この《ハンガリー舞曲》は盗作だとレメーニから訴訟を起こされてしまいます。しかし、「作曲ではなく編曲である」という判決が出て、ブラームスが勝訴しました。
ブラームスとしては、レメーニを通じて知ったロマの音楽を編曲したつもりで作品番号もつけませんでしたが、結果的にはそれが功を奏したというわけです(実は《ハンガリー舞曲》の何曲かの旋律は、ブラームス自身によるものだったのですが…)。
レメーニが裁判を起こすほど、《ハンガリー舞曲》が大旋風を巻き起こしたと言えますが、ブラームスの方も、レメーニに事前にことわりを入れておけば、このようなトラブルもなかったかもしれません。こうしてさまざまな反響を起こしたハンガリー舞曲は、その後も多くの音楽家によってオーケストラに編曲され、広く愛されていくのでした。
監修者
稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)

洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業。
これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。
一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。
東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。
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