【ポロネーズはショパンの原点】《英雄ポロネーズ》

ポーランドの作曲家フレデリック・ショパンは、「ピアノの詩人」とも呼ばれるほどピアノ曲を多く作曲し、ワルツ、マズルカ、ポロネーズといった舞曲を芸術作品として高めていきます。なかでも母国ポーランドの舞曲ポロネーズには、ショパンは並々ならぬ思い入れがありました。

ショパンの生涯

ショパン

出典:Wikimedia Commons

ショパンは、1810年にポーランドのワルシャワ近郊で生まれました。父二コラ(ポーランド名はミコワイ)はフランス人で、若かりし頃ポーランドに移住し、家庭教師をつとめていた伯爵家で働いていたユスティナと結婚、ショパン誕生後にワルシャワに移り住みます。

ショパンはまず母や姉からピアノの手ほどきを受けるようになります。6歳になるとショパンはジヴニーにピアノを師事し、1818年にラジヴィウ宮殿で初めての公開演奏会を開き、注目を集めます。ショパンはこのころから既に作曲を始めていて、ワルシャワ音楽院に入学すると校長のエルスネルに師事します。

在学中に作曲した《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲》は1829年ウィーンでのショパンのデビューコンサートでショパン演奏され、出版もされます。この作品を知ったシューマンは「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」とショパンを絶賛しています。

1830年の秋にショパンは再びウィーンに向かいますが、ワルシャワで11月革命が起きたことにより彼を取り巻く環境は一変します。ポーランド人に対する風当たりが強くなったのです。そのためショパンは翌年パリに行き、そこでリストと出会います。

ラジヴィウ公爵の仲介でロートシルト(ロスチャイルド)男爵と知り合ったことにより、ショパンはパリの社交界デビューを果たし人気者となっていきます。そんな中、ショパンはリストの紹介で文筆家のジョルジュ・サンドと知り合い恋愛関係になります。1838年、ショパンはサンドと彼女の子どもたちとスペインのマヨルカ島で生活を始めます。

このころから肺結核を患っていたショパンをサンドは献身的に看護しますが、彼の健康は次第に悪化していき、1847年にはサンドとも破局を迎えます。ショパンは1849年にパリで姉ルドヴィカに看取られながら亡くなります。葬儀と埋葬はパリで執り行われましたが、彼の心臓のみワルシャワの聖十字教会に安置されています。

【ポロネーズはショパンの原点】《英雄ポロネーズ》

ポロネーズ第6番《英雄》Op.53(1842年)
出典:Wikimedia Commons

ポロネーズは、ポーランド起源の3拍子のゆったりした舞曲を指し、「ポーランドの polonaise」を意味するフランス語がもとになっています。もともとはポーランドの農民や市民の間で踊られていた踊りがルーツで、しだいに士族や貴族たちによって踊られるようになります。

器楽曲としてのポロネーズは、J.S.バッハの管弦楽組曲などに代表されるように、ポーランド国内よりもまず国外で広く作曲されるようになります。

つまりショパンが幼かった頃のポロネーズは、ヨーロッパ中で広く知られた舞曲の1ジャンルだったのです。ショパンが最初のころ作曲したのはすべてポロネーズで、11歳の時には、師事していたジヴニー先生の65歳の誕生日にもポロネーズを書いています。

ショパンはそこから次第にポーランドの民謡など民族的なものを採り入れ、彼独自の和声や旋律などを用いて独自のポロネーズを作り上げていったのです。ショパンはポロネーズを生涯で18曲書きましたが、そのうちピアノ独奏のためのポロネーズは16曲あります。

《英雄ポロネーズ》が作曲された1842年ごろ、ポーランドはロシアによって占領され、国として消えてしまっていました。パリにはポーランドから亡命した人たちが多く身を寄せていました。そんな中、華やかさの中に力強さをもち、ポーランドの民族的要素を満載にしたこのポロネーズは人々の注目を集めます。《英雄ポロネーズ》より4年ほど前に作曲された《軍隊ポロネーズ》の力強さと相まって、この曲にショパンの母国への想いを重ねる人が多かったのです。

ところでこの「英雄」とは誰を指しているのでしょうか。実はショパンは、自分の作品に標題を付けるのが好きではありませんでした。標題のついたショパンの作品は、後世に付けられたものなのです。この《英雄ポロネーズ》という標題も誰がつけたのかは分かっていませんが、作品の力強さ、ショパンの想いを汲んで付けられたのでしょう。

監修者

稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)

 

稲葉 雅佳 バイオリン 洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業。

これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。

一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。

東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。


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ポーランドの作曲家フレデリック・ショパンは、「ピアノの詩人」とも呼ばれるほどピアノ曲を多く作曲し、ワルツ、マズルカ、ポロネーズといった舞曲を芸術作品として高めていきます。なかでも母国ポーランドの舞曲ポロネーズには、ショパンは並々ならぬ思い入れがありました。

ショパンの生涯

ショパン

出典:Wikimedia Commons

ショパンは、1810年にポーランドのワルシャワ近郊で生まれました。父二コラ(ポーランド名はミコワイ)はフランス人で、若かりし頃ポーランドに移住し、家庭教師をつとめていた伯爵家で働いていたユスティナと結婚、ショパン誕生後にワルシャワに移り住みます。

ショパンはまず母や姉からピアノの手ほどきを受けるようになります。6歳になるとショパンはジヴニーにピアノを師事し、1818年にラジヴィウ宮殿で初めての公開演奏会を開き、注目を集めます。ショパンはこのころから既に作曲を始めていて、ワルシャワ音楽院に入学すると校長のエルスネルに師事します。

在学中に作曲した《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲》は1829年ウィーンでのショパンのデビューコンサートでショパン演奏され、出版もされます。この作品を知ったシューマンは「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」とショパンを絶賛しています。

1830年の秋にショパンは再びウィーンに向かいますが、ワルシャワで11月革命が起きたことにより彼を取り巻く環境は一変します。ポーランド人に対する風当たりが強くなったのです。そのためショパンは翌年パリに行き、そこでリストと出会います。

ラジヴィウ公爵の仲介でロートシルト(ロスチャイルド)男爵と知り合ったことにより、ショパンはパリの社交界デビューを果たし人気者となっていきます。そんな中、ショパンはリストの紹介で文筆家のジョルジュ・サンドと知り合い恋愛関係になります。1838年、ショパンはサンドと彼女の子どもたちとスペインのマヨルカ島で生活を始めます。

このころから肺結核を患っていたショパンをサンドは献身的に看護しますが、彼の健康は次第に悪化していき、1847年にはサンドとも破局を迎えます。ショパンは1849年にパリで姉ルドヴィカに看取られながら亡くなります。葬儀と埋葬はパリで執り行われましたが、彼の心臓のみワルシャワの聖十字教会に安置されています。

【ポロネーズはショパンの原点】《英雄ポロネーズ》

ポロネーズ第6番《英雄》Op.53(1842年)
出典:Wikimedia Commons

ポロネーズは、ポーランド起源の3拍子のゆったりした舞曲を指し、「ポーランドの polonaise」を意味するフランス語がもとになっています。もともとはポーランドの農民や市民の間で踊られていた踊りがルーツで、しだいに士族や貴族たちによって踊られるようになります。

器楽曲としてのポロネーズは、J.S.バッハの管弦楽組曲などに代表されるように、ポーランド国内よりもまず国外で広く作曲されるようになります。

つまりショパンが幼かった頃のポロネーズは、ヨーロッパ中で広く知られた舞曲の1ジャンルだったのです。ショパンが最初のころ作曲したのはすべてポロネーズで、11歳の時には、師事していたジヴニー先生の65歳の誕生日にもポロネーズを書いています。

ショパンはそこから次第にポーランドの民謡など民族的なものを採り入れ、彼独自の和声や旋律などを用いて独自のポロネーズを作り上げていったのです。ショパンはポロネーズを生涯で18曲書きましたが、そのうちピアノ独奏のためのポロネーズは16曲あります。

《英雄ポロネーズ》が作曲された1842年ごろ、ポーランドはロシアによって占領され、国として消えてしまっていました。パリにはポーランドから亡命した人たちが多く身を寄せていました。そんな中、華やかさの中に力強さをもち、ポーランドの民族的要素を満載にしたこのポロネーズは人々の注目を集めます。《英雄ポロネーズ》より4年ほど前に作曲された《軍隊ポロネーズ》の力強さと相まって、この曲にショパンの母国への想いを重ねる人が多かったのです。

ところでこの「英雄」とは誰を指しているのでしょうか。実はショパンは、自分の作品に標題を付けるのが好きではありませんでした。標題のついたショパンの作品は、後世に付けられたものなのです。この《英雄ポロネーズ》という標題も誰がつけたのかは分かっていませんが、作品の力強さ、ショパンの想いを汲んで付けられたのでしょう。

監修者

稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)

稲葉 雅佳 バイオリン

 

稲葉 雅佳 バイオリン 洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業。

これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。

一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。

東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。


洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業

これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。

一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。

東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。


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2025年04月06日