【ラフマニノフを救った】《ピアノ協奏曲第2番》

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、彼の作品の中でもっとも有名と言っていいほどよく知られた作品です。最近では、この曲はフィギュアスケートのプログラムでもよく使われています。実はこのピアノ協奏曲は、ラフマニノフ自身の人生をV字回復させることになった、彼自身にとって大きな存在の作品なのです

ラフマニノフの生涯

ドビュッシー

出典:Wikimedia Commons

セルゲイ・ラフマニノフは1873年生まれのロシアの作曲家です。音楽好きの一家に生まれた彼は、母親からピアノの手ほどきを受けるとすぐに才能を見せ、1882年にはサンクトペテルブルク音楽院に入学します。その後いとこでピアニストのジロティの勧めでモスクワ音楽院に移ります。ここでラフマニノフは作曲やピアノを学びました。

ラフマニノフはピアニストとしても優秀で、繰り上げで受けたピアノ科の卒業試験を首席で卒業しています(この時の次席が作曲家スクリャービンでした)。翌1892年、ラフマニノフは作曲科の卒業試験も首席で卒業しています。

音楽院卒業後のラフマニノフは音楽教師をしながら作曲を続けていましたが、その頃書いた前奏曲《鐘》や、チャイコフスキーが絶賛したオペラ《アレコ》などによって作曲家として知られていきます。

ロシア革命が起きたことにより、ラフマニノフはドレスデンやコペンハーゲンに移住し、最終的には1918年アメリカに落ち着きます。当初はボストン交響楽団の指揮者に就任する予定でしたが、そのポストにはつかず、演奏活動を中心に各地を飛びまわりました。おりしも録音装置が誕生した時代で、ラフマニノフ自身の演奏も残されています。

【ラフマニノフを救った】《ピアノ協奏曲第2番》

金色の魚

ジロティ(左)とラフマニノフ
出典:Wikimedia Commons

ラフマニノフは、1897年の交響曲第1番の初演がひどい失敗に終わってからというもの、すっかり心に深い傷を負いノイローゼになり創作も出来なくなっていました。ダーリという医師の下で治療を受けると効果があらわれ、友人のオペラ歌手シャリアピンに誘われたイタリア旅行で気持ちも前向きになると、ラフマニノフは1900年の夏ごろからピアノ協奏曲の作曲にとりかかります。

まず第2楽章と第3楽章が完成しますが、第1楽章については、アイデアはあるもののなかなか筆が進みません。演奏会の日程は決まっていたので、まず完成した2つの楽章だけをラフマニノフのピアノ独奏とジロティの指揮で初演し、成功を収めました。

ジロティからもうながされ、ラフマニノフは残る第1楽章の作曲にとりかかります。1901年に行われた全楽章の初演は大評判を呼び、初演を聴いた作曲家タネーエフは「天才のなせる技だ!」と絶賛したといいます。この曲でラフマニノフはグリンカ賞を授与され、1904年には500ルーブルの賞金も手にします。

自信を取り戻したラフマニノフは、チェロとピアノのためのソナタや、ピアノ協奏曲第2番と同時期に作曲していた2台ピアノのための組曲などの初演も行いました。交響曲第1番の初演の失敗で落ちてしまった彼の作曲家としての評判は、ピアノ協奏曲第2番で復活したのです。

ピアノ協奏曲第2番はロシア国外でも人気となり、ラフマニノフはアメリカやイギリスなど、各国での演奏旅行で演奏しています。1か所で何公演もこの協奏曲を演奏することもあったほどです。その後に作曲したピアノ協奏曲第3番、《パガニーニの主題による狂詩曲》とともに、ラフマニノフはこの協奏曲第2番を生涯繰り返し演奏することになります。

ラフマニノフの作品の中でもっとも有名でもっともよく聴かれると言っても過言ではないこの作品は、彼に自信を取り戻させ、人生をV字回復させた作品でもあるのです。

監修者

稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)

 

稲葉 雅佳 バイオリン 洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業。

これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。

一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。

東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。


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ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、彼の作品の中でもっとも有名と言っていいほどよく知られた作品です。最近では、この曲はフィギュアスケートのプログラムでもよく使われています。実はこのピアノ協奏曲は、ラフマニノフ自身の人生をV字回復させることになった、彼自身にとって大きな存在の作品なのです

ラフマニノフの生涯

ドビュッシー

出典:Wikimedia Commons

セルゲイ・ラフマニノフは1873年生まれのロシアの作曲家です。音楽好きの一家に生まれた彼は、母親からピアノの手ほどきを受けるとすぐに才能を見せ、1882年にはサンクトペテルブルク音楽院に入学します。その後いとこでピアニストのジロティの勧めでモスクワ音楽院に移ります。ここでラフマニノフは作曲やピアノを学びました。

ラフマニノフはピアニストとしても優秀で、繰り上げで受けたピアノ科の卒業試験を首席で卒業しています(この時の次席が作曲家スクリャービンでした)。翌1892年、ラフマニノフは作曲科の卒業試験も首席で卒業しています。

音楽院卒業後のラフマニノフは音楽教師をしながら作曲を続けていましたが、その頃書いた前奏曲《鐘》や、チャイコフスキーが絶賛したオペラ《アレコ》などによって作曲家として知られていきます。

ロシア革命が起きたことにより、ラフマニノフはドレスデンやコペンハーゲンに移住し、最終的には1918年アメリカに落ち着きます。当初はボストン交響楽団の指揮者に就任する予定でしたが、そのポストにはつかず、演奏活動を中心に各地を飛びまわりました。おりしも録音装置が誕生した時代で、ラフマニノフ自身の演奏も残されています。

【ラフマニノフを救った】《ピアノ協奏曲第2番》

金色の魚

ジロティ(左)とラフマニノフ
出典:Wikimedia Commons

ラフマニノフは、1897年の交響曲第1番の初演がひどい失敗に終わってからというもの、すっかり心に深い傷を負いノイローゼになり創作も出来なくなっていました。ダーリという医師の下で治療を受けると効果があらわれ、友人のオペラ歌手シャリアピンに誘われたイタリア旅行で気持ちも前向きになると、ラフマニノフは1900年の夏ごろからピアノ協奏曲の作曲にとりかかります。

まず第2楽章と第3楽章が完成しますが、第1楽章については、アイデアはあるもののなかなか筆が進みません。演奏会の日程は決まっていたので、まず完成した2つの楽章だけをラフマニノフのピアノ独奏とジロティの指揮で初演し、成功を収めました。

ジロティからもうながされ、ラフマニノフは残る第1楽章の作曲にとりかかります。1901年に行われた全楽章の初演は大評判を呼び、初演を聴いた作曲家タネーエフは「天才のなせる技だ!」と絶賛したといいます。この曲でラフマニノフはグリンカ賞を授与され、1904年には500ルーブルの賞金も手にします。

自信を取り戻したラフマニノフは、チェロとピアノのためのソナタや、ピアノ協奏曲第2番と同時期に作曲していた2台ピアノのための組曲などの初演も行いました。交響曲第1番の初演の失敗で落ちてしまった彼の作曲家としての評判は、ピアノ協奏曲第2番で復活したのです。

ピアノ協奏曲第2番はロシア国外でも人気となり、ラフマニノフはアメリカやイギリスなど、各国での演奏旅行で演奏しています。1か所で何公演もこの協奏曲を演奏することもあったほどです。その後に作曲したピアノ協奏曲第3番、《パガニーニの主題による狂詩曲》とともに、ラフマニノフはこの協奏曲第2番を生涯繰り返し演奏することになります。

ラフマニノフの作品の中でもっとも有名でもっともよく聴かれると言っても過言ではないこの作品は、彼に自信を取り戻させ、人生をV字回復させた作品でもあるのです。

監修者

稲葉 雅佳(主宰, ヴァイオリン)

稲葉 雅佳 バイオリン

 


洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業

これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。

一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。

東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。

稲葉 雅佳 バイオリン 洗足学園音楽大学音楽学部 弦楽器科ヴァイオリン専攻卒業。

これまでにヴァイオリンを加藤尚子、永峰高志、勅使河原真実の各氏、ヴィオラを古川原広斉氏に師事。在学中よりソロ・オーケストラなどの演奏活動、ヴァイオリン個人指導を開始。古楽器を用いたピリオド奏法、音響学の知見からの効率的な奏法を研究、演奏指導に反映させている。

一般大学卒業後、金融機関の審査担当部門に勤務。30歳手前から音楽大学に進学、特に指導教授法についても学ぶ機会を多く得てきた。

東京国際芸術協会、横浜音楽協会会員、ソノール音楽教室主宰。

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2025年04月06日